hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

単純系と複雑系

単純系と複雑系について思いついたことを書き殴る。以下に書き記すことが正しいかどうかは分からない。今後の検討に委ねられよう。結論としては、自然科学と理論は単純系であるが、人文科学と生活世界は複雑系だ、ということになる。

 

前期ウィトゲンシュタイン写像理論で言葉と事実の1対1の一義的対応を示したが、これは自然科学だ。後期ウィトゲンシュタインは家族的類似性で事実を多義的に捉えたが、これは人文科学だ。ウィトゲンシュタインの変遷は人自然科学から人文科学へのそれを示す。

 

数学などの自然科学の用語は一義的であるが、歴史学社会学などの人文科学の用語は多義的だ。数字の1はどの計算で使われても同一だろうが、革命といえば名誉革命ピューリタン革命・フランス革命アメリカ独立革命ロシア革命など多々あるが、意味は「似て非なる」もので、共通点はあっても細部は異なる家族的類似性だ。自然科学と自然科学の基本がウィトゲンシュタインの前期と後期に相当する。

 

ここで数学と日常生活によくある事象を比べてみよう。数学では、1+1=2は「1に1を加えれば2になる」の意で、逆の方向に行けばいつでも2-1=1になる。部分の総和が全体であり、全体は容易に部分に還元できる。これが「合成」であり数学の本質だ。然るに生活世界はさに非ず。夫婦について考えられよ。男に女を加えれば夫婦になるかと言えば、それに尽きるものではなく、容易に男と女に解消できるのでもない。

 

夫婦は互いに何らかの愛着を抱くので(≒親和力)、結合性があり、この結合性が夫婦の解体を阻む力となる。水も然り。水素原子2つに酸素原子1つを並べればそれで水になるのでなく、水から酸素原子を1つひょいと簡単に取り除いて水を解体できるのでもない。3つの原子をまとめようとする何らかの結合的「力」が働くのだ。

 

数学は単なる 合成だが、夫婦と水は単なる合成以上のものだ。「全体は部分の総和に非ず」なる俚諺は後者の領域だ。私の言葉では前者は単純系で後者は複雑系だ。ウィトゲンシュタ インの前期から後期への移行は単純系から複雑系への移行とも言えそうだ。

 

なお、抽象的学問言語は重層的現実から一面を切り取ったものであるので単純系となるが、実際の生活世界は多面的多元的のままであるので複雑系である。アリストテレスがニコマコスで語ったのが、倫理学はおおまかな概念で済ますしかない、ということであるが、これは生活世界における倫理の重層性(複雑系)を語ったものである。単層的であるか重層的であるかの違いが自然科学と人文科学を識別する一要因となる(この識別は飽くまでも理念的発言であることに留意されたし)。このような単純系的理論と複雑系的実際の区別は自然科学と人文科学の区別とパラレルであるのが興味深い。

 

理論と実際の別はライルにおいてはknowing thatとknowing howとして定式化される。和訳はよく知らないが、理論知と実践知とでもいったところか。カント用語では(カント体系における意味づけはいざ知らず)純粋理性と実践理性となろうか。

 

#複雑系 #ウィトゲンシュタイン #ライル #日常言語