hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

「少女病」から「蒲団」へ ―田山花袋小論

少女病」(1907)から「蒲団」(1907)へ。ここには作者田山花袋のロマンチシズムからリアリズムへの脱皮が見られ、作家としての成長も見受けられ、同時に恋愛のいわば進化も見られる。ここでは、そういったことについてちょっとばかり筆を滑らせてみよう。

 

田山花袋は、自らが中年となって(といっても三十代半ばであるが)生活上も文学者としても活力が干からびてくると、若い女との恋愛を願望し、それが同年に発表された「少女病」と「蒲団」で露骨に描かれた。少女と言えば何ら肉欲を連想しないが、蒲団とすれば少しく生々しい。どちらの作品の主人公も生活が惰性に流されるだけで、作家としては大成の見込み薄の、妻子ある中年男性だが、前者では街や電車内で見掛ける少女(といっても年は十代後半から二十代前半だが)を少女趣味的なる文芸創作や空想のネタとするだけだが、後者では若い女と仮にも同じ屋根の下で一時ながらも暮らし、会話を交わし、見つめ合い、少なくとも主人公の主観では肉体的交渉を持ち得る機会は二回はあった(未遂だが)。「少女病」の主人公は少女趣味的妄想に自己閉鎖的に終始するだけだが、「蒲団」のほうはといえば、現実に若い女と身近に接している。ここに「空想から現実へ」の飛躍が見いだされる。田山花袋のモチーフは空想的少女から肉々しい蒲団へと成長しており、また視点を変えて言えば、田山花袋は両作品においてロマンチシズムからリアリズム(広義のだが)への啄木的変遷を経験している。ここに田山花袋の作家としての進化を見る。

 

石川啄木の「弓町にて」所蔵の「食うべき詩」には、ロマンチシズムからリアリズムへの変遷が見られる。かって啄木は名うてのロマン主義者であり、誰もが読めば心を焦がすような詩を書いていた。啄木はその頃を振り返って述懐する。

 

「朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれている心持は、ただ詩を作るということによっていくぶん発表の路を得ていた。そうしてその心持のほかに私は何ももっていなかった。――そのころの詩というものは、誰も知るように、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な宗教的要素(ないしはそれに類した要素)のほかには、因襲的な感情のあるばかりであった。自分でそのころの詩作上の態度を振返ってみて、一ついいたいことがある。それは、実感を詩に歌うまでには、ずいぶん煩瑣な手続を要したということである。たとえば、ちょっとした空地に高さ一丈ぐらいの木が立っていて、それに日があたっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁いある人にした上でなければ、その感じが当時の詩の調子に合わず、また自分でも満足することができなかった。」

 

しかし後に彼はそういった手続きに倦み果てた。彼は告白する。

 

「謂う心は、両足を地面(じべた)に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途みちである。」

 

啄木のこのロマンチシズムからリアリズムへの移行は、一面において田山花袋の「少女病」から「蒲団」への移行と符合し、その符合は二人の主人公の内面において確認される。

 

作者の成長は「少女病」の次の言葉からも窺われる。これは主人公の友人たちの遠慮なき主人公評だが、さる理由から主人公は「生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わん」(3)という。さる理由とは、こうしたことは書きにくいのでぼかすこととするが、作中の表現で言えば、「若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずからを傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。……肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ」となる。そして結論づけられる、「健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダンの標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。…人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴やつは生存しておられんさ」というふうに。

 

しかしこの言い回しは少々不正確だ。霊肉の調和が人間本来のあるべき姿であり、男女においてもそうであるならば、本能に従うというよりは、互いに恋し合う男女が体においても結合すべき、とでも言うところなのだ。本能のみに従うのではないのだ。これは性愛一致の境地なのであるが、それは詩人の高村光太郎が描き出した境地でもある。高村の次の詩を鑑賞されたし。

 

 

 「愛の嘆美」               高村光太郎

 

底の知れない肉体の慾は

あげ潮どきのおそろしいちから――

なほも燃え立つ汗ばんだ火に

火竜(サラマンドラ)はてんてんと躍る

ふりしきる雪は深夜に婚姻飛揚(ヴオル・ニユプシアル)の宴(うたげ)をあげ

寂寞(じやくまく)とした空中の歓喜をさけぶ

われらは世にも美しい力にくだかれ

このとき深密(じんみつ)のながれに身をひたして

いきり立つ薔薇(ばらいろ)の靄(もや)に息づき

因陀羅網(いんだらもう)の珠玉(しゆぎよく)に照りかへして

われらのいのちを無尽に鋳る

冬に潜(ひそ)む揺籃の魔力と

冬にめぐむ下萌(したもえ)の生熱と――

すべての内に燃えるものは

「時」の脈搏と共に脈うち

われらの全身に恍惚の電流をひびかす

われらの皮膚はすさまじくめざめ

われらの内臓は生存の喜にのたうち

毛髪は蛍光(けいこう)を発し

指は独自の生命を得て五体に匍(は)ひまつはり

道(ことば)を蔵した渾沌のまことの世界は

たちまちわれらの上にその姿をあらはす

光にみち幸にみち

あらゆる差別は一音にめぐり

毒薬と甘露とは其の筺(はこ)を同じくし

堪へがたい疼痛(とうつう)は身をよぢらしめ

極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす

われらは雪にあたたかく埋もれ

天然の素中(そちゆう)にとろけて

果てしのない地上の愛をむさぼり

はるかにわれらの生(いのち)を讃(ほ)めたたへる

 

 

いまは詳しくは論じないが、この詩は性愛一致の境地を描き出す。近代日本の詩人は、萩原朔太郎のように単なる肉欲詩を書いた者もいれば、宮沢賢治のような童貞詩をものした者もいるが、性愛一致を作品へと昇華した者は数少ないと思う。それは高村光太郎が達し得た境地であるが、それが理想だとは文士は知っていたのであり、そのことが田山花袋の「少女病」における友人たちの主人公評に反響している。本能に従うだけでは単なる肉欲だ。そうでなく、心で互いに愛し合う男女が体を求めあって結びつけあうことこそが、求められる究極の姿なのだ。

 

ところが「少女病」の主人公は片想い…否、妻子あって本人には浮気の願望がないので片想いでなく、プラトニック・ラブの願いもなく、単に自分好みの少女を遠めに見ては密かに楽しむだけとなっており、その思いは一方通行であり、その欲は肉と結びつかないのだ。性愛一致の理想からすれば、その疑似恋愛はあまりにも程遠いのだ。

 

「蒲団」ともなると、主人公は若い女に恋の思いを抱き(それは女の恋人に対して激しく嫉妬の焔を燃やすことからもわかる)、さらにあわよくば肉体的にも結合しようとまで思っており、しかも(主人公の主観では)その若い女弟子もまた恋の思いを共有していたのだ。主人公に妻子がいなければ、二人の思いは遂げられたであろう。しかし男には妻子がおり、女には恋人ができ、しかも若い男女は密かに結ばれてしまう。その意味では主人公の敗北ではあるが、しかし一時ながら共に思いを分かち合い、共に体の共有すらしようとした時があったのであり、性愛一致へと近づいたのだ。

 

まとまりが失われつつあるので、ここで筆をおこう。結論を言えば、

 

1)田山花袋の「少女病」から「蒲団」への変遷にはロマンチシズムからリアリズムへの変化が窺われるのであり、それは石川啄木の文学的成長と軌を一にするのであり、

2)「少女病」における主人公評には性愛一致の理想が不十分ながらも述べられているのであり、それは高村光太郎の境地でもあるのだ。

 

ここにおいて、田山花袋自然主義的小説世界は石川啄木の文学的進化と並行しており、その性愛一致を理想視する態度は高村光太郎の恋愛観と並ぶのだ。

 

田山花袋 「少女病」

田山花袋 「蒲団」

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石川啄木 「弓町より」