hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」断章

鴎外を動かしこの小説を書かしめたのは情熱でも苦悩でもなく好奇心だ。主人公の金井は科学者さながら自己を振り返り、観察し、記録する。そして作中に描かれる過去の金井もまた性的事象を科学者のように冷徹に見聞し、自ら体験し、記録する。そこがこの作品をユニークにし、また物足りなくもする。鴎外の悠々たる余裕派的態度はその客観的でそれ故に超然たる科学者的姿勢に由来するようだ。

 

自然科学的観点から人間的事象を記録するのは自然主義と同じだが、鴎外のこの作品は、例えば田山花袋の「蒲団」と同様に性欲を主題としながらも、両者はかなり趣を異にする。何故か。両者の気質・生い立ち・状況にその理由がありそうだ。

 

十四の頃、主人公の金井は寮の同室の先輩が自らを性的に弄ぶ話をするのを聞いて、試しに自分も、とやってみる。愉快でないし頭痛もする。もう一度春画を脳裏に浮かべて試みるが、頭痛のみならず動悸(おそらくは不愉快な)すらもする。それ以来は滅多なことではしなくなったと言う。そして鴎外は結論づける、「つまり僕は内から促されてしたのでなくて、入智慧でしたので、付焼刃でしたのだから、だめであったと見える」と。鴎外を動かしたのは少年の情念でなく冷静な好奇心だった。そして結果を観察しては批判的に検討する。まるで科学者だ。

 

この作品の冒頭を読むと興味深い。主人公の金井は哲学者であるが、小説をたくさん読む。しかし芸術的要求が相当高いので、小説は芸術的観点からでなく心理的観点から読む云々。ここから金井の奇妙な立ち位置が見える。彼が小説を書くとしたら、文学的意義はない、彼自身は哲学者であり、かつ芸術的要求があまりに高いからだ(彼には書けないからだ。ここに作者本人の芸術に対する屈折した思いも見られる)。しかし哲学者にしても私の見るところ科学者寄りだ。科学者として自らの過去を振り返り、書き留め、批判的に検討するからであり、そこには普遍的人間観もなければ形而上学もないからだ。

 

西洋の自然主義には科学万能主義の欠片が紛れ込んでおり、この立場からすると、人間の思いも振る舞いもすべて環境により引き起こされる結果に過ぎない。花袋の「蒲団」にはこういった因果説は稀薄だ。花袋の立場を仮に「情念的自然主義」とすれば、科学偏重のそれは「科学的自然主義」となる。さて、鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」にはこんな一節がある。主人公の金井は友人児島と古賀の二人と計三人で、ある種の禁欲同盟を結ぶが、金井はこう考える。「この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それは頗る疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかもしれない」と。つまり、金井は自己が醜男だという思いがあり、女との肉体的交渉は難しいと予め諦めており(これもまた「諦念」だが)、こういった環境的要因からして金井は情念の充足に積極的にはなれないのであり、禁欲的だとしても別に金井自身の手柄でも何でもないのだ。徒らに情念に振り回されることのなかった鴎外は、自然主義とは言っても花袋のような情念的でなくて科学的だ。

 

金井は身の回りの世話をしてくれる小娘のお蝶を観察の対象とする。理由はお蝶が金井に惚れた可能性があるからだ。惚れられたかもしれないのだが、喜びもせず高揚もせずに冷静に観察するのだ。ただ彼はお蝶がどこか怪しいと思っただけで本当に惚れたかどうかまでは探り出せなかった。謝恩会でも金井は男女の交渉の観察に精を出す。見合いすらもそういった観察と経験の好機だ。そして謝恩会も見合いもどこかおかしがって心の中で笑っているので余裕派だ。 鴎外は軽蔑でなくある種の親しみから、男女の事象をおかしがっている。ここに余裕がありユーモアがある。

 

しかし金井には「負けじ魂」がある。もしやこの魂が鴎外をして「阿部一族」を書かしめたのかもしれない。何故なら、阿部一族もある種の「負けじ魂」の故に一族が滅ぶからであり、鴎外はそれに共感したのかもしれない。