hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

田山花袋を巡って

島村抱月の「蒲団」評

 

島村抱月は『「蒲団」評』で言う。

1)従来のきれい事しか言わない小説と比べれば、「芸術品らしくない」この小説はその限界を打破したものとして評価できるが、しかし同時に芸術品らしくないというまさにその点で弊害もある。

2)主人公の妻の描写が不十分であり、主人公と子を抱えた家庭の関係が色濃くは描かれていないので、主人公の倦怠と煩悶がリアリティを欠く。

3)「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」であり、もっぱら醜を書いた(「醜」とはいえ「已みがたい人間の野性の声」だが)というところが画期的だ。

4)人間の醜い本能を理性の光で照らしだし、そうすることで自意識過剰な現代人の性格を露骨に示した。

5)新傾向の作家たちは醜いことを描いてもその心理は描かなかったが「蒲団」の作者は醜い心理を描いて醜いことは描かなかった。

 

島村抱月と私の蒲団評を比べれば、島村抱月はa)文学史の観点から自然主義を評しており、b)小説を文学として読んでいるが、私はa')人間または芸術家の成長の一過程としてリアリズム(自然主義を含むところの)を捉え、b')小説を哲学として理解している、ということになりそうだ。

 

田山花袋の「露骨なる描写」

文章は巧みであればよしとする技巧派に対して、花袋は批判する、「虚偽を卑むべきことは誰も知って居る。文章と思想と一致しない文字の一噱(きゃく)にも値せぬことは識者の皆な唱ふる処である。然るに、今の技巧論者は想に伴はざる文章を作り、心にもあらざる虚偽を紙上に連ねて、以てこれ大文章なりと言はうとして居るやうである」と。技巧派の言うことは、つまり心にも思っていないことを美辞麗句でもって飾り立てるだけの虚偽に過ぎないのだ。

 

そして花袋は自らの立場を弁明する、「今更言はんでも解つたことは、文章は意達而已で、自分の思つたことを書き得たと信じ得られさへすれば、それで文章の能事は立派に終るのである。何も難かしい辞句を連ねたり、色彩ある文字を拾い集めたりして、懊悩煩悶するには少しも当らぬ」と。文は達するのみ、という言葉が漢文にはあったかと思うが、それと同じで、上手下手は無関係で自分の思ったことが書き出せればよいのであり、通じればよいのだ。

 

技巧派は立場として「文章は飽までも綺麗でなければならぬ、思想は飽までも審美学の示す処に従はなければならぬ。自然を自然のままに書くことは甚しき誤謬で、いかなる事でも理想化則ち鍍(めっき)せずに書いてはならぬ」とするのだが、「これは随分久しい昔からの勢力で、クラシシズムは勿論、ロマンチシズムも全くこれに依て行動し」たという。

 

しかし西洋の文学界を一望すれば、「その鍍文学が滅茶々々に破壊せられて了つて、何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならんといふ叫声が大陸の文学の到る処に行き渡つて、その思潮は疾風の枯葉を捲くがごとき勢で、盛にロマンチシズムを蹂躙して了つたではないか」という。つまり西洋ではロマンチシズムはすでに廃れて、いまや自然主義でありリアリズムなのだ。花袋はイプセントルストイ、ゾラ、ドストエフスキーの名を挙げ、もはや綺麗ごとではすまないと訴える。彼らの小説は「只々自然の一事実の痛切に吾人の精神に響いて来るより他更に何等の脚色をも思想をも見出さぬ」のだ。 「技巧論者が見て以て粗笨なり、支離滅裂なりとするところのものは、却つてわが文壇の進歩でもあり、また生命でもあるので、これを悪いといふ批評家は余程時代おくれではあるまいか」とすら言うのだ。

 

要するに、

1)人生における一大事は美辞麗句で飾るだけでは描き切れないのであり、

2)文学界もロマンチシズムや古典主義から自然主義へと進歩しているのであり、

3)この自然主義の隆盛により文学は膠着状態から生き生きとした活力を取り戻しつつあるのだから、自然主義こそは文学者の目指すべきものなのだ。