hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

田山花袋の二つの自然

自然には二つの意味がある。その二つの意味合いは田山花袋の代表作「蒲団」、並びに晩年の好短編「一兵卒」において確認できる。

 

自然概念について言えば、その意味するところは、一つは生き生きと生きたいとする生の欲望であり、そのために「蒲団」では枯れかかった中年男性は恋愛を望む。恋愛といっても片思いやプラトニック・ラブではよくない。できるだけ生き生きとしたいのであり、そのためには人として持っている精神も肉体もどちらも活性化させたいのであり、だから性交渉を伴う恋愛をしたいのだ。結婚生活はいまや惰性に流れるだけなので、だから不倫願望を抱くのだ。「蒲団」の自然は単なる肉欲に尽きるものではない。

 

もう一つは痛みだ。疼痛は生物としての人間における根源的自然だ。ひどくなると肉親への情や望郷の念、または人生への反省などの人間らしさよりも、疼痛のほうがずっと人間の脳内を強く支配する。あらゆる人間らしさが剥ぎ取られ、人間は痛みに対する単なる反応体に堕するのだ。もはや獣と変わらないのだ。そしてこの疼痛的存在としての人間が「一兵卒」の主題だ。

 

「一兵卒」の後半では、戦場ならざる場所でろくに戦いもせずにいまにも死せんとする一兵卒の疼痛が、望郷や身内への思慕の念や己が無駄死にの虚しさよりも強く描かれている。またその少し先では、一兵卒はどこかの部屋に入り込み、屋外から聞こえる物寂しい蟋蟀の鳴き声を全身に染み入らせながらも、疼痛に展転反側し、作者は「自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴!」と書き殴る。人間は死ぬ間際にもなれば、自分の愛する人や故郷を思うことが人間らしさを構成するが、「一兵卒」ではそうでなく、ただ単に疼痛のみが人間の心の中を支配しており、精神を有する人間がいわば動物の次元に落とされている。人間らしい感情は見失われ、理性もどこかへと消え果て、ただの裸の「自然」が露呈されている。これもまた自然主義だ。

 

田山花袋は「蒲団」においては情念の自然を描き出し、「一兵卒」においては疼痛の自然を見出したのだ。