hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」断章

鴎外を動かしこの小説を書かしめたのは情熱でも苦悩でもなく好奇心だ。主人公の金井は科学者さながら自己を振り返り、観察し、記録する。そして作中に描かれる過去の金井もまた性的事象を科学者のように冷徹に見聞し、自ら体験し、記録する。そこがこの作品をユニークにし、また物足りなくもする。鴎外の悠々たる余裕派的態度はその客観的でそれ故に超然たる科学者的姿勢に由来するようだ。

 

自然科学的観点から人間的事象を記録するのは自然主義と同じだが、鴎外のこの作品は、例えば田山花袋の「蒲団」と同様に性欲を主題としながらも、両者はかなり趣を異にする。何故か。両者の気質・生い立ち・状況にその理由がありそうだ。

 

十四の頃、主人公の金井は寮の同室の先輩が自らを性的に弄ぶ話をするのを聞いて、試しに自分も、とやってみる。愉快でないし頭痛もする。もう一度春画を脳裏に浮かべて試みるが、頭痛のみならず動悸(おそらくは不愉快な)すらもする。それ以来は滅多なことではしなくなったと言う。そして鴎外は結論づける、「つまり僕は内から促されてしたのでなくて、入智慧でしたので、付焼刃でしたのだから、だめであったと見える」と。鴎外を動かしたのは少年の情念でなく冷静な好奇心だった。そして結果を観察しては批判的に検討する。まるで科学者だ。

 

この作品の冒頭を読むと興味深い。主人公の金井は哲学者であるが、小説をたくさん読む。しかし芸術的要求が相当高いので、小説は芸術的観点からでなく心理的観点から読む云々。ここから金井の奇妙な立ち位置が見える。彼が小説を書くとしたら、文学的意義はない、彼自身は哲学者であり、かつ芸術的要求があまりに高いからだ(彼には書けないからだ。ここに作者本人の芸術に対する屈折した思いも見られる)。しかし哲学者にしても私の見るところ科学者寄りだ。科学者として自らの過去を振り返り、書き留め、批判的に検討するからであり、そこには普遍的人間観もなければ形而上学もないからだ。

 

西洋の自然主義には科学万能主義の欠片が紛れ込んでおり、この立場からすると、人間の思いも振る舞いもすべて環境により引き起こされる結果に過ぎない。花袋の「蒲団」にはこういった因果説は稀薄だ。花袋の立場を仮に「情念的自然主義」とすれば、科学偏重のそれは「科学的自然主義」となる。さて、鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」にはこんな一節がある。主人公の金井は友人児島と古賀の二人と計三人で、ある種の禁欲同盟を結ぶが、金井はこう考える。「この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それは頗る疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかもしれない」と。つまり、金井は自己が醜男だという思いがあり、女との肉体的交渉は難しいと予め諦めており(これもまた「諦念」だが)、こういった環境的要因からして金井は情念の充足に積極的にはなれないのであり、禁欲的だとしても別に金井自身の手柄でも何でもないのだ。徒らに情念に振り回されることのなかった鴎外は、自然主義とは言っても花袋のような情念的でなくて科学的だ。

 

金井は身の回りの世話をしてくれる小娘のお蝶を観察の対象とする。理由はお蝶が金井に惚れた可能性があるからだ。惚れられたかもしれないのだが、喜びもせず高揚もせずに冷静に観察するのだ。ただ彼はお蝶がどこか怪しいと思っただけで本当に惚れたかどうかまでは探り出せなかった。謝恩会でも金井は男女の交渉の観察に精を出す。見合いすらもそういった観察と経験の好機だ。そして謝恩会も見合いもどこかおかしがって心の中で笑っているので余裕派だ。 鴎外は軽蔑でなくある種の親しみから、男女の事象をおかしがっている。ここに余裕がありユーモアがある。

 

しかし金井には「負けじ魂」がある。もしやこの魂が鴎外をして「阿部一族」を書かしめたのかもしれない。何故なら、阿部一族もある種の「負けじ魂」の故に一族が滅ぶからであり、鴎外はそれに共感したのかもしれない。

私の常民論

私の考えるところの「常民」について備忘録的に書き殴る。柳田国男の常民には明確な定義がなさそうだが、私はこんなふうに自由に考えている。

 

・常民とは、伝統的諸観念に安住しており、その中でも特に良質なる道徳的宗教的観念を、理解というよりは体得している者をいう。従って、どちらかといえば保守的だ。

 

・常民は、学識はなく、どちらかといえば無学であり、日々を労働に打ち込み、労働を通して物事を学ぶ。

 

・常民は、たいていは声高な政治的主張はせず(そうすれば常民というよりは大衆や民衆となる)、自らの分限を守り、非党派的であり、非分断的だ。今日のSNS社会では、例えばツィッターなどでは「いいね」くらいはするかもしれないが、積極的な政治的社会的主張は、どちらかといえば控え目であり、いわゆるサイレント・マジョリティを構成する。論語の言葉でいえば、「同じて和せず」ではなくて「和して同ぜず」となる。

 

モンテーニュが見て感嘆した農民は、病気や老齢でもう数日後には死ぬと知りながらも泰然自若としていたその姿だった。常民は哲学者すら容易でない死の恐怖をごく普通に克服している。

 

・イエスはしばしば聖書で単純ながらも善良なる常民を誉めている。法華経における常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)、仏教における周梨槃特(しゅりはんどく)なども常民と言えそうだ。そして「雨ニモマケズ」と唱えた宮沢賢治、自らを常不軽菩薩になぞらえていたとも言われるこの詩人も、いわば常民かもしれない。

 

ソクラテスは専門の哲学者やソフィストでなく、その話には常に卑近な例が持ち出され、貧しい一庶民であり、本を書いたこともなく、常民といえば常民だ。

 

法然は、お経はいらず、お香もいらず、仏壇も仏像もいらず、ただ念仏だけでよく、自らを無知無学の民と同じ立場に置け、と訴えている。親鸞は遥々その教えを聞きに来た者に対して、私はただ念仏を称えよといった法然の教え以外は何も知らないと述べている。道元法然に似て、お経もいらず、お香もいらず、仏壇も仏像もいらず、ただ坐禅さえすれば、無知無学といえども悟りを開く、と説く。いずれも常民志向と言えそうだ。

 

・規範を説明できず根拠も示せないが(学識を欠くので)、それでも規範について語ることはできるし自ら示すこともできるのが常民だ。そういえば、ソクラテスは勇気を定義できなかったが示すことは容易にできた。彼もまた常民だ。

 

・リヒャルト・デーメルなる詩人には「海の鐘」という作品があるが、私が千の言葉を費やして論じるよりも、ずっと常民の本質を伝えている。少し長いが引用しよう。

 

海の鐘

 

漁師が賢い倅(せがれ)を二人持つてゐた。

それに歌を歌つて聞かせた。

「海に漂つてゐる不思議な鐘がある。

その鐘の音を聞くのが

素直な心にはひどく嬉しい。」

 

一人の倅が今一人の倅に云つた、

「お父つさんはそろそろ子供に帰る。

あんな馬鹿な歌をいつまでも歌つてゐるのは何事だ。

己は船で随分度々暴風(あらし)の音を聞いた。

だがつひぞ不思議な鐘は聞かぬ。」

 

今一人が云つた。「己達(おれたち)はまだ若い。

お父つあんの歌は深い記念から出てゐる。

大きい海を底まで知るには

沢山航海をしなくてはならぬと思ふ。

そしたらその鐘の音が聞こえるかも知れぬ。」

 

そのうち親父が死んだので、

二人は明るい褐色(かちいろ)の髪をして海へ漕ぎ出した。

さて白髪になつた二人が

或る晩港で落ち合つて、

不思議な鐘の事を思ひ出した。

 

一人は老い込んで、不機嫌にかう云つた。

「己は海も海の力も知つてゐる。

己は体を台なしにするまで海で働いた。

随分儲けたことはあるが、

鐘の鳴るのは聞かなんだ。」

 

今一人はかう云ふて、若やかに微笑んだ。

「己は記念の外には儲けなんだ。

海に漂つてゐる不思議な鐘がある。

その鐘の音を聞くのが

素直な心にはひどく嬉しい。」

 

 

 

常民は仕事を通して学ぶ。金儲けよりも記念を得る。その記念は伝統的宗教と親和性が高いが、そのくせ如何なる既成宗教の教えとも異なる。常民は素直で若々しい。おそらくは誠実で真摯に生きている者が高齢になって始めて真の常民となる。

田山花袋を巡って

島村抱月の「蒲団」評

 

島村抱月は『「蒲団」評』で言う。

1)従来のきれい事しか言わない小説と比べれば、「芸術品らしくない」この小説はその限界を打破したものとして評価できるが、しかし同時に芸術品らしくないというまさにその点で弊害もある。

2)主人公の妻の描写が不十分であり、主人公と子を抱えた家庭の関係が色濃くは描かれていないので、主人公の倦怠と煩悶がリアリティを欠く。

3)「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」であり、もっぱら醜を書いた(「醜」とはいえ「已みがたい人間の野性の声」だが)というところが画期的だ。

4)人間の醜い本能を理性の光で照らしだし、そうすることで自意識過剰な現代人の性格を露骨に示した。

5)新傾向の作家たちは醜いことを描いてもその心理は描かなかったが「蒲団」の作者は醜い心理を描いて醜いことは描かなかった。

 

島村抱月と私の蒲団評を比べれば、島村抱月はa)文学史の観点から自然主義を評しており、b)小説を文学として読んでいるが、私はa')人間または芸術家の成長の一過程としてリアリズム(自然主義を含むところの)を捉え、b')小説を哲学として理解している、ということになりそうだ。

 

田山花袋の「露骨なる描写」

文章は巧みであればよしとする技巧派に対して、花袋は批判する、「虚偽を卑むべきことは誰も知って居る。文章と思想と一致しない文字の一噱(きゃく)にも値せぬことは識者の皆な唱ふる処である。然るに、今の技巧論者は想に伴はざる文章を作り、心にもあらざる虚偽を紙上に連ねて、以てこれ大文章なりと言はうとして居るやうである」と。技巧派の言うことは、つまり心にも思っていないことを美辞麗句でもって飾り立てるだけの虚偽に過ぎないのだ。

 

そして花袋は自らの立場を弁明する、「今更言はんでも解つたことは、文章は意達而已で、自分の思つたことを書き得たと信じ得られさへすれば、それで文章の能事は立派に終るのである。何も難かしい辞句を連ねたり、色彩ある文字を拾い集めたりして、懊悩煩悶するには少しも当らぬ」と。文は達するのみ、という言葉が漢文にはあったかと思うが、それと同じで、上手下手は無関係で自分の思ったことが書き出せればよいのであり、通じればよいのだ。

 

技巧派は立場として「文章は飽までも綺麗でなければならぬ、思想は飽までも審美学の示す処に従はなければならぬ。自然を自然のままに書くことは甚しき誤謬で、いかなる事でも理想化則ち鍍(めっき)せずに書いてはならぬ」とするのだが、「これは随分久しい昔からの勢力で、クラシシズムは勿論、ロマンチシズムも全くこれに依て行動し」たという。

 

しかし西洋の文学界を一望すれば、「その鍍文学が滅茶々々に破壊せられて了つて、何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならんといふ叫声が大陸の文学の到る処に行き渡つて、その思潮は疾風の枯葉を捲くがごとき勢で、盛にロマンチシズムを蹂躙して了つたではないか」という。つまり西洋ではロマンチシズムはすでに廃れて、いまや自然主義でありリアリズムなのだ。花袋はイプセントルストイ、ゾラ、ドストエフスキーの名を挙げ、もはや綺麗ごとではすまないと訴える。彼らの小説は「只々自然の一事実の痛切に吾人の精神に響いて来るより他更に何等の脚色をも思想をも見出さぬ」のだ。 「技巧論者が見て以て粗笨なり、支離滅裂なりとするところのものは、却つてわが文壇の進歩でもあり、また生命でもあるので、これを悪いといふ批評家は余程時代おくれではあるまいか」とすら言うのだ。

 

要するに、

1)人生における一大事は美辞麗句で飾るだけでは描き切れないのであり、

2)文学界もロマンチシズムや古典主義から自然主義へと進歩しているのであり、

3)この自然主義の隆盛により文学は膠着状態から生き生きとした活力を取り戻しつつあるのだから、自然主義こそは文学者の目指すべきものなのだ。

「少女病」から「蒲団」へ ―田山花袋小論

少女病」(1907)から「蒲団」(1907)へ。ここには作者田山花袋のロマンチシズムからリアリズムへの脱皮が見られ、作家としての成長も見受けられ、同時に恋愛のいわば進化も見られる。ここでは、そういったことについてちょっとばかり筆を滑らせてみよう。

 

田山花袋は、自らが中年となって(といっても三十代半ばであるが)生活上も文学者としても活力が干からびてくると、若い女との恋愛を願望し、それが同年に発表された「少女病」と「蒲団」で露骨に描かれた。少女と言えば何ら肉欲を連想しないが、蒲団とすれば少しく生々しい。どちらの作品の主人公も生活が惰性に流されるだけで、作家としては大成の見込み薄の、妻子ある中年男性だが、前者では街や電車内で見掛ける少女(といっても年は十代後半から二十代前半だが)を少女趣味的なる文芸創作や空想のネタとするだけだが、後者では若い女と仮にも同じ屋根の下で一時ながらも暮らし、会話を交わし、見つめ合い、少なくとも主人公の主観では肉体的交渉を持ち得る機会は二回はあった(未遂だが)。「少女病」の主人公は少女趣味的妄想に自己閉鎖的に終始するだけだが、「蒲団」のほうはといえば、現実に若い女と身近に接している。ここに「空想から現実へ」の飛躍が見いだされる。田山花袋のモチーフは空想的少女から肉々しい蒲団へと成長しており、また視点を変えて言えば、田山花袋は両作品においてロマンチシズムからリアリズム(広義のだが)への啄木的変遷を経験している。ここに田山花袋の作家としての進化を見る。

 

石川啄木の「弓町にて」所蔵の「食うべき詩」には、ロマンチシズムからリアリズムへの変遷が見られる。かって啄木は名うてのロマン主義者であり、誰もが読めば心を焦がすような詩を書いていた。啄木はその頃を振り返って述懐する。

 

「朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれている心持は、ただ詩を作るということによっていくぶん発表の路を得ていた。そうしてその心持のほかに私は何ももっていなかった。――そのころの詩というものは、誰も知るように、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な宗教的要素(ないしはそれに類した要素)のほかには、因襲的な感情のあるばかりであった。自分でそのころの詩作上の態度を振返ってみて、一ついいたいことがある。それは、実感を詩に歌うまでには、ずいぶん煩瑣な手続を要したということである。たとえば、ちょっとした空地に高さ一丈ぐらいの木が立っていて、それに日があたっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁いある人にした上でなければ、その感じが当時の詩の調子に合わず、また自分でも満足することができなかった。」

 

しかし後に彼はそういった手続きに倦み果てた。彼は告白する。

 

「謂う心は、両足を地面(じべた)に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途みちである。」

 

啄木のこのロマンチシズムからリアリズムへの移行は、一面において田山花袋の「少女病」から「蒲団」への移行と符合し、その符合は二人の主人公の内面において確認される。

 

作者の成長は「少女病」の次の言葉からも窺われる。これは主人公の友人たちの遠慮なき主人公評だが、さる理由から主人公は「生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わん」(3)という。さる理由とは、こうしたことは書きにくいのでぼかすこととするが、作中の表現で言えば、「若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずからを傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。……肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ」となる。そして結論づけられる、「健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダンの標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。…人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴やつは生存しておられんさ」というふうに。

 

しかしこの言い回しは少々不正確だ。霊肉の調和が人間本来のあるべき姿であり、男女においてもそうであるならば、本能に従うというよりは、互いに恋し合う男女が体においても結合すべき、とでも言うところなのだ。本能のみに従うのではないのだ。これは性愛一致の境地なのであるが、それは詩人の高村光太郎が描き出した境地でもある。高村の次の詩を鑑賞されたし。

 

 

 「愛の嘆美」               高村光太郎

 

底の知れない肉体の慾は

あげ潮どきのおそろしいちから――

なほも燃え立つ汗ばんだ火に

火竜(サラマンドラ)はてんてんと躍る

ふりしきる雪は深夜に婚姻飛揚(ヴオル・ニユプシアル)の宴(うたげ)をあげ

寂寞(じやくまく)とした空中の歓喜をさけぶ

われらは世にも美しい力にくだかれ

このとき深密(じんみつ)のながれに身をひたして

いきり立つ薔薇(ばらいろ)の靄(もや)に息づき

因陀羅網(いんだらもう)の珠玉(しゆぎよく)に照りかへして

われらのいのちを無尽に鋳る

冬に潜(ひそ)む揺籃の魔力と

冬にめぐむ下萌(したもえ)の生熱と――

すべての内に燃えるものは

「時」の脈搏と共に脈うち

われらの全身に恍惚の電流をひびかす

われらの皮膚はすさまじくめざめ

われらの内臓は生存の喜にのたうち

毛髪は蛍光(けいこう)を発し

指は独自の生命を得て五体に匍(は)ひまつはり

道(ことば)を蔵した渾沌のまことの世界は

たちまちわれらの上にその姿をあらはす

光にみち幸にみち

あらゆる差別は一音にめぐり

毒薬と甘露とは其の筺(はこ)を同じくし

堪へがたい疼痛(とうつう)は身をよぢらしめ

極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす

われらは雪にあたたかく埋もれ

天然の素中(そちゆう)にとろけて

果てしのない地上の愛をむさぼり

はるかにわれらの生(いのち)を讃(ほ)めたたへる

 

 

いまは詳しくは論じないが、この詩は性愛一致の境地を描き出す。近代日本の詩人は、萩原朔太郎のように単なる肉欲詩を書いた者もいれば、宮沢賢治のような童貞詩をものした者もいるが、性愛一致を作品へと昇華した者は数少ないと思う。それは高村光太郎が達し得た境地であるが、それが理想だとは文士は知っていたのであり、そのことが田山花袋の「少女病」における友人たちの主人公評に反響している。本能に従うだけでは単なる肉欲だ。そうでなく、心で互いに愛し合う男女が体を求めあって結びつけあうことこそが、求められる究極の姿なのだ。

 

ところが「少女病」の主人公は片想い…否、妻子あって本人には浮気の願望がないので片想いでなく、プラトニック・ラブの願いもなく、単に自分好みの少女を遠めに見ては密かに楽しむだけとなっており、その思いは一方通行であり、その欲は肉と結びつかないのだ。性愛一致の理想からすれば、その疑似恋愛はあまりにも程遠いのだ。

 

「蒲団」ともなると、主人公は若い女に恋の思いを抱き(それは女の恋人に対して激しく嫉妬の焔を燃やすことからもわかる)、さらにあわよくば肉体的にも結合しようとまで思っており、しかも(主人公の主観では)その若い女弟子もまた恋の思いを共有していたのだ。主人公に妻子がいなければ、二人の思いは遂げられたであろう。しかし男には妻子がおり、女には恋人ができ、しかも若い男女は密かに結ばれてしまう。その意味では主人公の敗北ではあるが、しかし一時ながら共に思いを分かち合い、共に体の共有すらしようとした時があったのであり、性愛一致へと近づいたのだ。

 

まとまりが失われつつあるので、ここで筆をおこう。結論を言えば、

 

1)田山花袋の「少女病」から「蒲団」への変遷にはロマンチシズムからリアリズムへの変化が窺われるのであり、それは石川啄木の文学的成長と軌を一にするのであり、

2)「少女病」における主人公評には性愛一致の理想が不十分ながらも述べられているのであり、それは高村光太郎の境地でもあるのだ。

 

ここにおいて、田山花袋自然主義的小説世界は石川啄木の文学的進化と並行しており、その性愛一致を理想視する態度は高村光太郎の恋愛観と並ぶのだ。

 

田山花袋 「少女病」

田山花袋 「蒲団」

www.aozora.gr.jp

石川啄木 「弓町より」

 

 

田山花袋の二つの自然

自然には二つの意味がある。その二つの意味合いは田山花袋の代表作「蒲団」、並びに晩年の好短編「一兵卒」において確認できる。

 

自然概念について言えば、その意味するところは、一つは生き生きと生きたいとする生の欲望であり、そのために「蒲団」では枯れかかった中年男性は恋愛を望む。恋愛といっても片思いやプラトニック・ラブではよくない。できるだけ生き生きとしたいのであり、そのためには人として持っている精神も肉体もどちらも活性化させたいのであり、だから性交渉を伴う恋愛をしたいのだ。結婚生活はいまや惰性に流れるだけなので、だから不倫願望を抱くのだ。「蒲団」の自然は単なる肉欲に尽きるものではない。

 

もう一つは痛みだ。疼痛は生物としての人間における根源的自然だ。ひどくなると肉親への情や望郷の念、または人生への反省などの人間らしさよりも、疼痛のほうがずっと人間の脳内を強く支配する。あらゆる人間らしさが剥ぎ取られ、人間は痛みに対する単なる反応体に堕するのだ。もはや獣と変わらないのだ。そしてこの疼痛的存在としての人間が「一兵卒」の主題だ。

 

「一兵卒」の後半では、戦場ならざる場所でろくに戦いもせずにいまにも死せんとする一兵卒の疼痛が、望郷や身内への思慕の念や己が無駄死にの虚しさよりも強く描かれている。またその少し先では、一兵卒はどこかの部屋に入り込み、屋外から聞こえる物寂しい蟋蟀の鳴き声を全身に染み入らせながらも、疼痛に展転反側し、作者は「自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴!」と書き殴る。人間は死ぬ間際にもなれば、自分の愛する人や故郷を思うことが人間らしさを構成するが、「一兵卒」ではそうでなく、ただ単に疼痛のみが人間の心の中を支配しており、精神を有する人間がいわば動物の次元に落とされている。人間らしい感情は見失われ、理性もどこかへと消え果て、ただの裸の「自然」が露呈されている。これもまた自然主義だ。

 

田山花袋は「蒲団」においては情念の自然を描き出し、「一兵卒」においては疼痛の自然を見出したのだ。

プラトンからウィトゲンシュタインへ

プラトンの「ラケス」の主題とウィトゲンシュタインの思想的変遷が不思議に符合する。

 

「ラケス」では、勇気の定義がその主題なのだが、筆者たるプラトンは対話者の一人をしてこんなふうに言わせている。勇気の定義なんてお茶の子さいさいだと思っていたのに、いざしようとなると、これまたサッパリわからなんだ、と(194b)。そこでソクラテスのお出ましなのだが、この西洋思想史上一、二を争う偉人とて、最後の最後には「勇気が何であるかを我々は発見しなかった」と途方に暮れる始末だ(199e)。

 

この偉人は英雄でもあって、自分が参加した戦闘が敗北した際には、沈着と冷静をずっと保っており、アテネ人の尊敬を勝ち取っている(181b)。思索家ながらも、行動の人としてこの上なく勇気があったのだ。

 

つまり、ソクラテスは勇気の定義は失敗に帰したが、それでも勇気を示すことなら容易にできたのだ。

 

さて、ウィトゲンシュタインだが、「哲学探究」にはアウグスティヌスの言語観を手短にまとめて言う、単語はモノの名前であり文は名前をつないだものだ、と(1)。これはウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の立場を要約したものでもある(例の写像理論だ)。これを「哲学探究」でウィトゲンシュタインは批判するのだ、八百屋で客に「赤いリンゴを5個お願いします」と言われたら、八百屋はただ赤いリンゴを5個客に差し出せばいい、そんなふうにプリミティブでいい、単語の意味なんてまったく問題ではない、と(1)。単語の意味はむしろ言葉の使用方法なのだ、と(43)。

 

この「論理哲学論考」から「哲学探究」への変遷がプラトンの「ラケス」の内容と符合するのだ。だって、ソクラテスは勇気の定義はできなかったのに、勇気の使用方法はちゃんと知っていたのだから。古代の「ラケス」が2000年以上も経て「哲学探究」へと結実したのだ。不思議なもんだね、哲学って。

罵倒詩

どういった時に人は罵倒するだろうか。感情が昂ぶった時だ。どういった時に昂ぶるのか。愛や憎しみを強く感じる時だ。では、人はいつ愛や憎しみがとりわけ昂ぶるのか。いろいろあるだろうが、ここではこういうふうに言おう。愛する者や憎んでいる者が死んだ時だ、と。興味深いのは、愛と憎しみは相反する情熱であるのに、どちらも同じ行為へと結実することだ。読者よ、愛する者を亡くした経験があるだろうか。読者がもし男性ならば、そんな際にふと心に罵倒表現が思い浮かばなかっただろうか、「あの馬鹿め」「阿呆が」などと。これは愛情の裏返しだ。

 

自分が無関心な人が亡くなっても特に心は動揺しない。自分が心から憎む者が死ねばある種の感動を生じ、それが言語化されて「馬鹿め」なんぞと口に出すかもしれない。奇妙にも、深浅あれども愛する者を亡くした時にも、人によっては「阿呆めが」などの言葉が思わず知らず洩れることがある。私がそうだった。彼女は私が深く愛する人だった。それが事故死などをするなんて。どうしてもっと生きてくれなかったのか。どうしてあまりにも若すぎる死を死んだのか。悔しいではないか。苦しいではないか。これが罵倒に結実するのだ。罵倒語は深い思いの顕れであって、その思いは愛憎を問わないようだ。そしてこの罵倒が詩になることがあるのだ。

 

といっても、そう数は多くない。まず高村光太郎の「村山槐多」を挙げよう。

 

「村山槐多」

 

槐多は下駄でがたがた上がつて来た。

又がたがた下駄をぬぐと、

今度はまつ赤な裸足で上つて来た。

風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。

黒チヨオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱいに汗をかいてゐる肉塊槐多。

五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。

強くて火だるた槐多。

無限に渇したインポテンツ。

 

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」

「居るよ。」

「僕は眼がつぶれたら自殺しますよ。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。

自然と人間の饒多(げうた)の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

 

 

 

これは必ずしも罵倒とは言えぬかもしれないが、最終行に注目されたし。「野たれ時にした若者槐多よ、槐多よ。」だ。この「野たれ死に」が罵倒語になる。高村光太郎は村山槐多なる画家にして詩人を深く愛していた。その激烈、その求道。村山の画風や詩風は高村のそれとは異なっていたかもしれない。しかしその強烈なる精神は高村の深く共鳴するところだった。それが死んだ。若くして野垂れ死んだ。高村は深く動揺した。かくも才能豊かなる若者がどうして死んだのだ、と嘆いた。その思いが罵倒となった。

 

次に、これはどうかとも思わぬではないが、宮沢賢治の「岩手山」だ。

 

岩手山

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くえぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

 

 

この詩の背景を私は知らぬ。私の解釈は間違っているやもしれぬ。それでも言わせてもらおう。宮沢は岩手山を深く愛していた。その山が今日はどうしてか汚くて黒く澱んでいる。どうして我が愛しの山がかくも醜いのか。詩人はかく嘆き、その強い愛着の思いが罵倒となって現れたのが「きたなくしろく澱むもの」なる最終行だ。思いが深いからこそ、強い感情となって詩人の筆を揺り動かし、詩人は知らず罵倒するのだ。罵倒は愛情の裏返しなのだ。