hiroshi-satow’s diary

市井の思索家です。

田山花袋の「蒲団」に関する省察(1)

主人公の竹中時雄は三十代半ばの妻子ある作家であり、ある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝いをしている。三年前に三人目の子ができ、新婚の快楽はとうに尽き、社会と深く関わって忙しいでなく、大作に取り掛かろうという気力もない。朝起きて出勤し夕方に帰ってきては妻の顔を見、飯を食って寝る、の繰り返しである。「単調なる生活につくづく倦き果てて了しまった」(二)のである。それが原因なのか、少し鬱気味でもあるようで、「家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点滴、花の開落などいう自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに処は無いほど淋しかった」(二)という。そして「道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った」(二)とまでも言うのである。どうも女に出会って恋に陥ったのではなく恋をしたいがために女に出会いたいと切望したのであり、恋を望んだのは生が生活の惰性や、それ以上に老いに打ち克とうとしたからなのである。

 

人はいつしか老いていく。仕事も続けていると飽きもすれば壁にぶつかりもするし、気力も萎えてくる。結婚しても数年もすれば最初の頃の激しい焔も弱まっていく。すべて物事は新鮮味を失い、習慣化され惰性に流れ、ひいては生命が衰え滅びていく。諸行無常であり自然である。しかし生命は生命である以上、生き生きとしていたいと願うし、生命力が衰えてくればその焔を再び強く燃やそうと熱望する。生命だからであり、これもまた自然である。すると、死せんとする自然と生きんとする自然との相克もまた自然の実相となる。この三つの自然、ここに「蒲団」の秘密があり、田山花袋自然主義の本質がある。そして再び生きんとする欲望の一つの現れとして恋愛願望が兆すことになる。浮気といえば浮気であり不倫といえば不倫の願望なのだが、そう言い切るのみでは事の本質を見誤ることになろう。

 

 

主人公の時雄は独白する。「悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華かな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘そんでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠まれる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情けないものはない」と(四)。諸行無常の方向性を有する自然の客観的力を花袋は「自然の底に蟠まれる抵抗すべからざる力」と表現する。それに反発していっそう生きんと欲望する主体的力も、残念ながらそれにはとうてい敵わないので悲しく儚く情けないと時雄は嘆くのである。そして自然の客観的力と主体的力とのせめぎ合いについて、作者は主人公をして次のように嘆かしめるのだ、「矛盾でもなんでも為方がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」と(四)。心中の悲痛な叫びなのである。この二つの自然的力の争いの真っただ中にあって人は苦しまざるを得ないのである。

 

 

要するに、衰え死せんとするのも自然ならば、より強く激しく生きんとする本能も自然なのであり、この両自然のせめぎ合いの自然を描き出したのが「蒲団」なのであり、それが矛盾となって主人公を苦しめるのである。一般には、自然主義は人間を美化せずに醜悪なる側面もありのままに描き出す、といったふうに定義できようが、そう言い切るだけでは見失うところもありそうである。

 

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